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新だんずり日記 2005年2月
2月24日 さくらへの思い
「あさかぜ」と比較して、この列車への思いは薄いと思われたものの、気が付いてみりゃあそうではなくて、同じくらい思い出があったりする。この列車のお世話になり出したのは「博多・あさかぜ」「みずほ」が廃止された後で、同時期には「はやぶさ」も単独運転をしていただろうに何故かこの列車に乗り始める事になる。
大抵、コミケやスーパーシティおよび東京の同人誌即売会に対しては、行きが「さくら」帰りが「下関あさかぜ」または「のぞみ」というスタイルに推移していた。

この「さくら」、実は幼少の頃はあまり好きな列車ではなかった。寝台特急を代表するネームバリューを持っているのにである。何の事ぁ無い、14系寝台車を受け付けなかったからという理由。そう、ただそれだっけだった。特に切妻部分の中途半端な曲線とも白帯というのに馴染めなかったのだ。が、ヒルネで乗ってみたら列車としては悪くなくて、嫌いという事は無くなったものの、やはり気にはならなかった存在だった。当時は牽引機にヘッドマークが付いていなかったのも関係しているのかもしれない。

しかし少し気になり出した時期があった。1983年あたりから14系寝台車のリニューアル工事が開始された関係で、「さくら」や「みずほ」から2両ずつ寝台車が抜かれた時期があって、代わりに14系座席車が連結されていたのだ。
あの寝台車と座席車の屋根部分の凸凹具合が妙に私の心を捕らえて話さなかったし、最後尾のスハフ14の愛称表記までが省略されるという潔さにやや感動気味である。
ただ、やっぱし乗りたいという気持ちにはまだまだ程遠かった。

1994年に「博多あさかぜ」と「みずほ」が廃止になったのを機に、何故か冬コミ参加に当たって乗車する事になってしまった。参加前々日の夜から出発し、前日の昼間に東京入りするというパターンだが、実際乗ってみてなんだか気に入った。というのも、瀬戸内海や山陽地区をほど良い夜の時刻に走り、翌朝おきれば名古屋あたり。そこからお昼前までのんびりと客車特急の旅が楽しめるというのが一発でガンと来たのだ。
そう、客車昼行特急「つばめ」「はと」の雰囲気を疑似体験出来る。新幹線だと2時間そこらで着いてしまう名古屋〜東京を4時間30分近くかけて走る(まぁそれなりに良いスピードだと思うが)、翌朝以降ののんびり感が贅沢に素敵。
実は東海道本線、天気が良ければそれなりに車窓は魅力的で、目玉の湘南海岸だって富士山だって、晴れていればより映えて見える。こういう車窓を各駅停車のストレスも無く、目を回すほどの速度な新幹線でもない適度な速度で楽しめる。これです。
それ以後、コミケ前後に時間の余裕があった頃は、上京に関しては必ず「さくら」を使用する惚れ込みようだった。
1998年の12月(コミケとは別用)を最後に単独の「さくら」からは遠ざかり、1999年に併結運転開始後は乗車する暇も無くなってしまった。やっと暇を見つけたと思ったら満席だったりして「富士」に乗る事になったりしてますます縁遠くなり、その後もなかなか機会に恵まれないまま居たものの、機会だけは狙っていて資金だけはちゃっかり確保していた。皮肉にもその資金を使う機会が訪れたのが今回の廃止前のお別れ乗車である。

今回の「さくら」は1ヵ月前に密かに締めようという目論見だったものの、シングルデラックスが連結されるという事で最後をこの時期に移して「シングルデラックス」で締める事にしたのだ。
願わくば、室内の照明を全て消してプラネタリウムには程遠いけども、クッキリとした星空に包まれて眠り、翌朝は優しい朝の日差しを浴びながらのんびりと旅を楽しみたい。まぁそうは言っても尾道くらいまでは起きていて、そして翌朝はこの日だけ違うルートを走るから尼崎で起きちゃうんだろう。タフな旅になるんだな。

思えば、昼間に東海道をのんびり走るという、今の時代の鉄道事情にとって致命的な部分を好きになってしまったというなんとも言い難い話だな。ついに九州を起終点とする列車でのんびりとした旅情を味わえるのは「富士/はやぶさ」だけになってしまうんだな。

・・・・しかし、寝台列車が無くなってしまうにあたって大枚はたいてわざわざ乗りに行って、しかも2倍増しのA個室を使用する上に、その日のうちに帰って来てしまう事について、「おかしな金の使い方だ!」とおっしゃる貴兄もいらっしゃるとは思いますが・・・・、ホントにおかしな金の使い方って言うのは・・・
こういうのを言うんだ!  
2月22日 あさかぜへの思い 
廃止直前特集。
昭和30年代初期に現れ、以後文字通りキラ星のごとく東海道に参禅と輝きを放った寝台特急群も、いまやわずかに数往復が残るだけ。名門「博多あさかぜ」、バイプレーヤー「みずほ」は既に消え、「さくら」は「はやぶさ」と併結運転。その「さくら」も2月28日に本線を去る。東京発・九州寝台特急は「はやぶさ」と「富士」が残るのみ。
皮肉にも「さくら/はやぶさ」、そして今回の「富士/はやぶさ」と運転区間がかつての「みずほ」の歴史を逆トレースするという九州向け寝台特急事情の中、最後まで踏ん張り続けた「下関あさかぜ」も同時に引退する事が決定した。

という事で「あさかぜ」の思い出を延々と語ってみましょう。いま乗車して同業者を捕まえてダラダラと喋るよりは公害率は低いはずです。
この列車に出会ったのはもう幼少の頃。まだこの列車が20系で走っていた頃である。走っている姿を見て何気に綺麗な列車だったのが強い印象となって残り、そのままこの列車に惹かれて行く事になる。当時は個室寝台を連発していた「あさかぜ」の晩年も晩年で、直ぐに24系25形の、どちらかというと機能的なフォルムの客車に置き換わってしまった。が、幸運な事にGWや夏休み時期には臨時で20系が走った為、大好きな「あさかぜ」を時折見ることが出来た。
24系25形にようやく慣れて来た頃、いよいよこの列車が好きでたまらなくなって来た。休みの日ともなれば、鹿児島本線沿線に繰り出しては、引込み線を経由して竹下客車区に出入りする「あさかぜ」を見に行ったものである。
青く美しい車体・そして元祖ブルートレインという貫禄・東京〜博多という、未知の世界東京へ連れて行ってくれる列車という憧れ。赤いED72に引かれてやって来る「あさかぜ」を見ては胸躍らせていたものである。
子供の頃は結局乗車はかなわなかったものの、長崎に日帰り旅行に行った際、母親が「あさかぜ」好きを察してくれて、「みずほ」と「さくら」の立席特急券を手配してくれた。この心遣いが子供心なりに解って嬉しかったね。
 下関からはEF81−400番台で九州入りする

時代は流れて社会人へ。この頃になると一時省略されていたヘッドマークが復活し、客車も金帯を巻いて2・4人用個室やシャワールームが連結され、グレードアップした「あさかぜ」が走っていた。
社会人という身分ならば金もある程度自由になるし、なんとかこの「あさかぜ」に乗りたくなって来た!しかしそのキツカケというものがなかなか無い!
しかしそのチャンスは程なくして訪れる。1991年。なんとあの「サークル甲冑娘」が企画・運営するゲームオンリー同人誌即売会「コミックちょろけん」に出席する為に用いたのがそう、「あさかぜ」だったのだ。
折りしもGW。文句なしの五月晴れの中を快走し、暗闇の中、わずかに輝く夜景色に感動し、そして翌朝は富士山の景色を生まれて初めて体験。これまた大感動である。食堂車も車内販売も充実していたから今よりもずっと夜行列車の旅を満喫出来た。「あさかぜ」オリジナルメニューである「雉焼御前」は美味かったし安かった。
実は、このイベントの後、現地に泊まらずにそのまま下り「あさかぜ」で帰って来てしまう。朝の東広島の山間の緑瀬戸内海や山口平野がこれまた綺麗だったのを覚えている。
そんな合間を縫って、「元祖あさかぜ」の20系にも「急行玄海」「急行霧島」として乗車。確かに3段寝台は窮屈だったものの、元祖「あさかぜ」と同形式の車両に乗るという念願が叶う。しかしまぁ、ドアを手で開けて下さいってのは凄いと思いましたよ。手動だったんだなぁ20系のドア・・・。
 
下関あさかぜに連結されていたラウンジカーにはパンタグラフが付き、架線から編成全体の電源を供給する

隙あらばこの博多「あさかぜ」に乗車するも、食堂車が営業休止に・・・。その後なんと博多「あさかぜ」が平成6年、突然廃止になったしまった。これは相当ショックで、涙ながらに運転最終日の返却回送を眺めたもんだった。そう、子供の頃憧れの眼差しで見ていたあの場所、東領公園前の沿線で・・・。
その後しばらく未練がましく「博多あさかぜ」のスジで運転されていた「臨時あさかぜ」(なんと14系15形を使用していた!)を利用しつつ、気持ちは最後に残った「下関あさかぜ」にシフトして行く。ラウンジカーやシャワールームもあったし、それなりに「あさかぜ」していたので気持ちはこっちに移っていく。牽引機もEF66だったし・・・。ダイヤも凄かったですよね。下関16時40分発・東京7時27分着。そう、この列車、コミケットのサークル受付締め切り時刻に間に合う列車だったので、当日会場入りするには便利が良かったんですよ。事実、2003年夏まであさかぜ→会場パターンを可能な時はやっていましたから。初日・2日目に限って言うと一般列に並ぶにあたっても使えたし・・・。
「下関あさかぜ」は上りだと瀬戸内海の夕暮れと夜の尾道、そして深夜の明石海峡大橋まで楽しめて、更に琵琶湖線では221系とバトルまでやってくれるという、なかなか車窓的にも良いトコ付いて来るんですけど、下りの夜に関しては由比の海くらいしか見所が無く、もっぱら翌朝の瀬戸内の夜明け、冬場だったら海面から湯気が立つという美しい景色といった車窓に見所が終始してしまうのだ。まぁ夏場とか春先だったら、新山口〜長府あたりの緑が茂っていて気持ち良いかな。
下関あさかぜ」に関してはリクライニングベッドにでっかい窓、そして洗面所や持参したテープも楽しめるビデオデッキまで装備したA個室「シングルデラックス」まで利用して、設備に関してはひと通り利用させてもらいました。あ、ラウンジカーには売店の設備があって、ひところはちゃんと売店の機能を果たしていたんですよね。併設されていたシャワールームは寝台列車にはありがたい装備だし、シャワー上がりのビールって美味しかったなぁ・・・。

 下関あさかぜ 車庫から出場

それにしても、何度「あさかぜ」に乗ったんだろう?数え切れないほど乗っているんだな。廃止直前の今にして思えば、ホントに乗りまくっていて良かったと思います。ただ、惜しむらくは・・・最後に乗った2003年の夏。コミケ2日目に「あさかぜ」から乗り込もうとしたものの、大雨で東海道本線小田原付近が冠水し、自分が乗っていた「あさかぜ」が由比で運転抑止になって新幹線振り替え輸送になった点、東京まで乗り通せなかった事か。
 大雨の為、由比駅で運転抑止

この列車、ひとりで乗った事も多かったんですけど、いろんな人と乗った。そういえば漫画家の星逢ひろ先生と夏コミ帰りに乗った事もあったな!(証拠写真あり)いやいや、まぁそれは良いとして、せめてもう一度くらいは乗っておきたかったが、最後の乗車チャンスは理由あって「さくら」に使った。せめて機会があったら「サンライズ・ゆめ」に乗車して「あさかぜ」の姿を追いかける事にしよう。
2月21日 自分の弱点を利用する
なんですな、34年も生きていますと嫌な事も数多く経験する訳ですが、そんな中でどうにも他人の裏や下心を勘ぐろうとする心が育ってしまって、かなり心が硬くなってしまってイカンです。

さて、今回は趣向を少し変えつつ・・・。

男の人生ってのは、自分の得意技で身を滅ぼすことも多々ある。今の自分がまさにそれだったりする訳ですが、逆に自分の欠点や失敗を利用する事も出来るというお話。
実際問題「抱腹Z2003 マソア様がみてる」の山西利治氏音源提供の付録CDなんざその最たる例で、これなんかは山西氏のクレームが縁となって実現したようなもんだ。

さあ、自分の人生の中でそういう場面を少し振り返ってみる。
話は随分さかのぼって22年前の話。少年野球をやっていた頃。当時自分はチーム事情でセンターをやっていた。ある試合の事、回は最終回。得点は3−2でわが軍が1点リードしている。エース君も強力打線をよくもまぁ2点に押さえているもんだけど、2死二塁にまで詰め寄られた。この二塁ランナーを還してはいけない場面。打順は七番。
定石で言うとここはやや前進守備を取るのも悪くないが、何故かこの私、強力打線というのが凄く脳裏にこびり付いて離れない。結果、低位置よりも少し後ろに位置を取っていたのだ。これでは自分の前にヒットが飛んで来れば必ず点に結びついてしまう。
自分がそれに気づいたのは、投手が相手打者に初球を投じた時である。あわてて前進守備に切り替えようとするも、打球は投手の足元を抜けて自分の正面に転がり出したのだ。ところが投球前に後ろの守備位置を取っていたのが幸いしてくる。相手の二塁ランナーは、投球前の守備位置だけでヒットが出たら三塁を回ると決めてかかっていたのだ。
さて、センター前ヒットを片手で必死につかみ、懇親の力を込めてバックホーム。当時自分の肩は弱い方だったのでワンバウンド・ツーバウンドそしてスリーバウンド目くらいにホームベース上でブロックするキャッチャーのミットに収まり、二塁ランナーは驚きの目をしつつタッチアウトになり、ここに外野手の栄誉である捕殺を記録する。
曲がりなりにも自分の失敗がトリックプレーに変化してしまった瞬間だ。

もうひとつ。かれこれ9年前の話。これまた野球での経験談。
当時チームは1勝差で2位という位置につけていて、例年2割5分そこそこの打率の自分が6割以上のハイアベレージで首位打者争いをしていたと言う忘れ得ない年だった。
残業上がりで試合開始には間に合わなかったものの、なんとかグラウンドに到着した自分が見たスコアは、1−0。1点差を必死に守っている状態である。回は6回表。ウチの攻撃。なんとしてでも追加点が欲しいところだ。
そんな場面。当時の監督は自らに代えてこの私を代打に指名した。審判の「代打・藤原」の声が響くも、相手チームにはその意図がわからない。それもそのはず、前述通り打撃に関してはあまり数字が残っていない選手である。
マウンド上の相手投手はリーグを代表する速球派。堂々と仁王立ちで見下ろしてくる。
第1球、内角低めギリギリに速球がズバリと決まってワンストライク。2球目も同じコースに決まってツーストライクである。あっという間に追い込まれてしまった。自分はリーチが短いから、外角球に対応できるように打席ギリギリに構える、しかし反面内角球のコースの見極めが悪いとそこが弱点になる。事実、内角低めは苦手なコースだ。そこを強気に攻められてはどうにもこうにもである。
3球目の前に考えた事は、率は低かったけどクセモノ打者を自称する自分としては見逃し三振ほど恥ずかしいものは無い。バットを出そう。多分相手は自分の事を格下も格下の打者と感じているから、3球続けて内角低めを投げてくるんじゃないか。
という事で内角低めと決めて3球目を振りぬいた。「こんな球打てるか!」という事を考えながら・・・。ところが快音を残し、手にはバットに当たった感触を残さずに打球は一・二塁間を低いライナーで抜けて行った。自分の打撃で一番好きなライト前ヒットである。
この後、次打者の左中間前ツーベースで一気にホームを狙うも堅固なブロックに阻まれてタッチアウトに・・・。(鼻血が出た)しかし、勢い止まらずその後連打で3点をもぎ取り試合を決めた。
そのまま2位をキープし続けた我チーム、最終戦で首位チームがよもやの下位チームに取りこぼし、なんと逆転優勝してしまった。
件の試合後、チームのみんなから「もうここまで来たら首位打者を狙えよ」と言われたものの自身は2位に。でも優勝の方が嬉しかった。この年の優勝カップは藤原の自宅に保管されております。
このケースでは、自分の欠点を察し、それを利用して好結果に繋がって行った。

どうも自分には自分の欠点を察知、失敗を利用してそれを良い方向に持っていく才能はありそうな気がする。半偶発的にしろ現実に実現しているからだ。実は会社の仕事でもそういう場面があった気がするが思い出せない。ただし、それに結びつける努力方法と考えの切り替え方がイマイチ解らない。それを意識的に出来る様になると、もっと面白い人生を送れると思うのだが・・・。

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